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老人と暮らす

 えっと、そう、テーマは「老人と暮らす」です。
手始めに、老人と暮らすって項目で、自分の中の経験を検索してみると。
昔も、老人と暮らしてました、そういえば。ものすごく昔だけど
30年ちかく前のことだけど、私が11歳から13歳まで、
祖父母と3人ぼっちで世田谷区で暮らしていました。私の両親と兄弟は
そのころは新潟市内に住んでいて。新幹線もまだ開通前で、
祖父母の家から新潟の両親の家まで片道6時間以上はかかってた。
どうして祖父母に預けられたんだったっけなあ、都内の中学校進学のためだったけど
たぶん私ならひとりでもだいじょうぶって母が手放したからだと思う。
そんなこんなで、世田谷の深沢の父方の祖父母の家と、上北沢の母方の祖父母の家を
行ったり来たり、あと新潟にもひとりで行ったり来たりの2年間でした。
母方の祖父が東急ハンズで私の名前の表札を作って、祖父母宅の玄関に貼ってくれました。11歳で表札持ってるなんて変な気分でした。ま、それはどうでもいいことなんだけど。

父方の祖父母は広島岡山の出身で、いろいろな点が田舎風でした。一方、母方の祖父母は、とても都会風でした。私は習慣の違いにギャップを感じる毎日。それにちょっと反抗期入ってたかも。祖父母と3人で暮らすという生活も初めてだったし、最初はとまどいました。でも老人といっても祖父母たちもまだどちらかというと若くて、みんな60代半ばから70代前半だったな。両方の祖父母にとって初孫の私。生まれたときもしばらく母方の祖父母宅で暮らしていたし、とにかく祖父母たちにとっては馴染みの深い子だったんだと思う。そして私にとっても、祖父母たちはれっきとした父親がわり、母親がわりでした。お弁当も作ってもらったし、宿題教えてもらったこともあったし、捻挫のときは病院もつれていってもらったな。学校の帰りは必ず駅まで祖母が迎えにきてくれた。みんな無条件でかわいがってくれたと思う。敬老の日は祖父2人と祖母2人と私の合計5人で展覧会を見たあと上野のレストランでお食事。もうあのころ過ごしていた両方の祖父母の家はないし、そもそも祖父母たちもみな天国に行ってしまいました。日々の記憶は私の頭の中にだけ。

そうそう、私にとって20代は一応、労働がテーマだったと思う。それから30代は出産と子育てがテーマだったかな。そして40代は、おそらくこれは「老人と暮らす」ひいては、「老人介護」がテーマみたいです。覚悟決めました。




駅で、はぐれた話

 ある時、仲間内で自分の知っている一番まぬけな話を順に披露することになった。
友人が郵便配達人の話をしたあと、ぼくに順番がまわってきた。
ぼくは迷わず、自分の知っている一番まぬけな話を始めた。

 その当時ぼくは今と同じくらいみすぼらしくて金もなくて、その点は今とあまりかわらないけど、当時のぼくはというと、とある大先生がわざわざぼくに会いにきてくれるという伝言を受け取って少し舞い上がっていた。駅に、特別列車で現れるという。大先生はもちろん大旅行の途中だ。
 そこでぼくは約束の日時に駅の改札に向かい、ごったがえす駅の構内で、大先生の乗る列車が到着するのを待っていた。やがて列車がホームに入ってくるのが見えた。ふだんはみかけない豪華客車が付いた特別列車。豪華客車は特等切符を買える選ばれた人しか乗れない、金のないぼくは改札さえくぐれない。ぼくの目にも、やがてその初めて見る豪華客車の徐行する姿が見えた。改札ごしに列車が静かに止まるのが見えた。ちょうど豪華客車の窓の内側に、美しい夫人と並んで座った大先生の横顔が見えた。大先生もホームの手前の改札口に目線を送ってきたように見えた。ぼくと目が合ったように思ったが、大先生は座ったまま、すぐに手元の腕時計懐中時計を見つめているようだった。混雑しながらの乗客の乗り降りがやがて終わり、ふいに発車のベルが鳴り、特別列車は突如、動き出す。ぼくはごったがえす駅の改札の手前で豪華客車の窓がゆっくり走り出すのを見た。大先生が降りてこないことに最初の段階で気づいてしまったので、ぼくが切符を買ってホームまで行かなくては会えないままだとぼんやり勘づいたが、そんな金がないことは大先生も先刻承知だろうよ、住む世界が違うことを暗に見せつけているんだろうか?、とも内心毒づいていた。いや、大先生は細かいことは気にしないから、そこまで気がまわらないのだとせめて思いたい。大好きだった大先生の横顔が通り過ぎていく。ぼくがあれほど舞い上がっていた大先生との再会は、このルールではもともと実現不可能な幻想だったのだ。ぼくはとてもうちひしがれながら、もはや瞬時に本物の負けを悟っていた。この先、もう二度と大先生と会うこともないのだ、そもそもぼくのようなみすぼらしい者が、大先生夫妻に近づいて良いわけがない。大先生にとってしても、非常に迷惑なだけ。だから先生も。ぼくは未来が見えてしまった。決して先生の乗る列車に乗ることはない。ぼくと先生の線路がこの先、重なることはないのだ。

 これがぼくが知っている一番まぬけな話。ひとしきり話すと仲間内からは聞こえないくらいの細いため息が漏れたようだった。誰もなんにも言わなかった。そしてまた次の男が渾身のまぬけな話を始めたので、ぼくは黙って聞き澄ました。





父の誕生日

昨日は父の誕生日だった。おめでとう。
夜、11時近くになった頃、父から電話があった。夫が電話に出て、夜遅かったこともあり最初は何か事件が起きたのかと夫は思ったみたいだけど、そうではない、父の誕生日に花を贈っていたのだ。そのお礼だ。すぐ電話を替わった。
父は飲んで帰ったらしく「花、綺麗だよ。とっても綺麗な花だ。いや、ちょっと酔って帰ってきたところなんだ」と話した。父の声は好きだ。結構、若若しい。たぶん私が男だったら父みたいな声なんだと思う。母方の祖母がお婿さんの声が好きだと昔に言っていたが、分かる気がする。
 父は東大法学部卒のエリートっぽい人で、私の妹もふたりとも東大大学院に行ったので、4流大学にしか行けなかった私は正真正銘の不肖の娘なんだけど、、でも父とは多分心が通じているところがあると思う。
 そういえば昔、私と祖父が仲が良いのを見た父が「おじいちゃんとは何だか心が通じているみたいだね」と言ったことがあるけれど。あと、叔父のアントンと私のことも「アントワンとは心が通じるところがあるみたいだね」と言っていた。
 父は本当、真面目な人でほとんど余計なことは言わない感じなんだけど、私があまり心が通じていない点を言うのではなく、通じているっていうことだけこっそり気付いたように言ってくれるのは感謝してました。
 私が東京で生まれたとき、父はUCLAの大学院に留学していて、私が父と初めて会ったのは生後6ヶ月を過ぎてからだったみたいだけど。でもね、それからロサンゼルスで一緒に暮らし始めてやっぱりはじめての子で印象が強かったのか、いまだにハニーデューメロンが大好きだった1歳くらいの頃の私のことを話の種にしている。ココナツから飲むみたいにメロンを抱えて果汁まで飲んでいたって。よっぽど印象的だったんだろうと思う。
 父はまだ働いていて仕事も充実してとても忙しいみたいだけど、どうぞお元気でいてください。それだけですが、書いてみました。
 
 追伸:贈った花は5月の誕生花のサンダーソニアという花で花言葉は「祝福、福音」だそうです。







村上春樹ごっこ

朝から缶ビールをどんどん空けている間、昔 ともだちの圭さんと村上春樹ごっこをしたのを思い出した。
そのころ芦屋駅の南側に「Birthday」という名のホットドッグ屋があり、そこはレンタサイクルもやっていて自転車を借りて海のほうへ緩やかな坂を降りていった。
ふたりとも赤い自転車だったと思う。色は赤なので話し合って形はわざと違うのにした。
父は2年間の単身赴任中で芦屋の洒落たマンションに一人で住んでいた。父が出張で不在の時を見計らってわれわれは東京静岡から芦屋川沿いのそのマンションに泊まらせてもらいにいった。
もちろん季節は夏だった。さっき買ったホットドッグと一緒に缶ビールを念のため10本くらい前カゴに入れて、天気はうってつけに晴れていたよね。坂だから両足を左右に突き出したりしてずっと降りていった。途中、昔の防波堤だったあたりも確認したりして、黒川紀章のマンションが視界に入りながら、テニスコートの横を通って、海まで行った。それから今の防波堤の上に座って、テトラポットを眺めながら缶ビールをどんどん空けていった。私なんか最初から500mlの缶だもん。圭さんはそんなに飲めないから私がどんどん空けていくのを大笑いして見ていた。日焼けしやすい圭さんは酔っただけでなく手足が真っ赤だった。もし通りがかりの人に「何しているんですか?」と聞かれたら「村上春樹ごっこ」と答えるしかなかった OLさんふたりで。









1989年

1989年 僕はひっそり家を出た。
有力者の誰かが僕の住む丘に興味を示し、手に入れたがっているという噂だった。
夕暮れ時、地平線のはるか向こうに、装甲車が隊列を組んで、静かに並んでいるのを見た。
微動だにせずに静止していたので、美しい景色の一部として、見過ごしそうだったほどだけど
あれは装甲車の群れ。どれだけの人が乗っているのか、どんな目、肌の色でどんな言葉を話すのか。
姿と意図が見えない無言の相手。呼び掛けたとして装甲車だもん、誰も出てこないんだろ?
僕はすっかり混乱したまま、闇に紛れてひっそり家を出た。怖かったんだよ。

しばらく1ヶ月間は叔母と叔母の生まれたばかりの赤ちゃんと僕の3人で祖母の空家で暮らすことにした。それから叔母に付いて叔母の夫の住むオランダのハーグへ行った。祖母の妹が大金持ちで、僕に50万円くれた。時はバブルの全盛期。羽振りの良い人たちはお金が有り余っているみたいだ。僕は50万円を有り難く頂戴して60日間オープンのKLMの航空チケットを買った。オランダのハーグの街を歩いた。先祖のひとり澤太郎左衛門という人もハーグに住んでいたらしい。もちろん面識はないけれど120年ほど前に澤さんがハーグのその目抜き通りを歩いていたことは何だかわかった。それからベルギーやローマやスペインを回った。ナポレオンフィッシュツアーの横浜スタジアムの日はスペインで海水浴をしていた。砂浜の午前11時は横浜の午後6時で、水着を着た僕の頭の中で雷が鳴った。
 9月、そのままではオランダで20歳を迎えてしまう。僕は、東京に戻った。東京では女性はみんな、暑くてもストッキングを履いているんだなと感心した。
 新聞広告を見た。知らぬ間に僕に似た写真がお尋ね者になっていた。写真は似てるけど名前が違うみたい。僕に似た人は心配されているらしい。僕はやっぱり混乱した。怖かったんだよ。

 ただひたすら怖がっていただけだとすると、ただひたすら怖がらせていただけになってしまう。ごめんなさい。
 


ブログはじめます

 ブログ書きます。
ブログを始めるにあたって、ふさわしい話ではないと思うけど
2週間前に流産しました。もう体のほうは痛みとか出血はほとんど治まって
こうして日は過ぎていくけど、まだ少し、かえって心のほうが少しばかし
痛むようです。
少しずつだけど、道で小さな赤ちゃん連れを見かけるとまだ、
胸がズンと沁みるような。
流産も出産も生々しいものですし、こういうことなんだ、、、
と経験してみないと分からないし、
まして男の人には体験しようもないので、これは本当、
女性ゆえのことなんだなあ。
赤ちゃん、心臓が動いているのを画面で見るだけだけど確認して。幸せな気持ちだった。
それからしばらくして、あっという間に私の中からはがれて
行ってしまいました。7週目だったのかな。
年齢のことや経済的な問題とか色々あるけど
体が命の誕生にかかわるのは
原始的なことかも知れないけど大切なこと
さすがに診察室で泣いていました。
どうしてこんなに悲しいんだろう泣けてくるんだろうっても思いながら。
その夜テレビをぼんやり見ていたら松井冬子さんという美しい女性、
日本画家を取り上げた番組をやっていて。
ジェンダー化された痛みという言葉が出てきました。
自分の痛みの性質についてもぼんやり考えながら。


余談ですが、カナガワケンでは産科の医師不足が深刻で問題だと
ニュースでは見ていたけれど、まさか私の周辺も本当に
そうなっているとは露知らず。。
妊娠検査薬に反応するかしないかの段階で
分娩したい病院に申し込みをしないと、
出産難民になってしまうかも知れない
という実態にも本当にびっくりしました。

流産のことは(いつか)忘れるかも知れないけど、
忘れないつもり  冒頭からこんな話ですみません。



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